Miss.Lの修行 2

進化というのはある意味残酷なもので、生き残った者が正義だというわかりやすいものです。
その時代に適したものが生き残って、時代に遅れたもの、時代に適さないものは滅びてゆくわけです。
では、命がけで戦はなければいけない時代に殺さずを謳う武器の生存を残すはずはないのである。
日本でもそうだ、江戸時代に武士こそが支配階級の頂点でそれをわかりやすい形で理解させるために 武士以外には武器としての刃物を持つことを許さなかった日本においてすら 古来より伝わる流派が文武不殺を謳う流派として存在する。
中国でも「聖天大聖」と言って天に比べるものなき物と自画自賛していた猿の武器もそうだったわけです。
両端に刃や、多くの針のついた武器を持つのが普通、現に河童と豚の家来はそういったものを付けた武器を持っていた。
だとすれば、何故にこれほどの数の流派がありこれほどの人が学ぶまでになったのか それこそが私の研究対象であった。
そして棒術の発祥の地という中国奥地にまでやって来て卒論のために持論の実証を図ったのですが、それが全く通用せずにそのまま居ついている。
宗教と強固に結びついていると思った持論は、発祥の地が仏教とイスラム教が混沌とした場所だったという時点で挫折したわけです。
昔、この国が侵略の危機にあったときに その国の王が治めた武術が棒術であったということ以上にわかることがない。もちろん中国全土というわけではなくこの地区にあった国ということであるが・・・
それでも思った以上に体にしみこむようなこの国の棒術。
むき出しの体術は 体の動きそのものを少しずつ広げただけのもの。
どれ一つ無理のない動きながら、自分のもう一歩を要求される動きは体に辛いのですがそれ以上に自分の想像以上の動きが、変わってゆく毎日薄皮を一枚ずつ剥ぐように 毎日わずか1mm程度でも 昨日より今日、明日と動きが すべての動きが大きくなる感覚はどんな武術を今まで学んできても得られない感覚。
例えるなら初めて技を教えてもらったときに、その動きが思った以上の威力を見せた時の感動が毎日続くような感覚。
それが新しい技などではなく、一連の動きの流れを繰り返すだけで体感できる。技を修めたのではなく この棒術の教えの流れに乗った感じ。
故に、最後に絶掌の短い塘路を教え習得したにもかかわらず 自らその拳法を修めた感覚がないのである。
いまだに手のひらで操られているようで、自らの意思で使うものに昇華されていない感じです。
人と練習で戦った時も 相手の動きに合わせて体が自動的に動く。
今日の練習も頭で考えているという感じではなく、長老からそれを指摘された気がする。
ちっとも自分のものになっていない。
あまりにも悔しくてここから離れられない。勿論、毎日の修行は新しい自分を発見できるという状況は変わっていない。余計に何にもわかっていない気がする。
 
一度、事件が起こっても村は変わらないのどかな風景。
一部の人たちが慌ただしいだけ・・・・
村の広場には練習場がある、自分の型を見るのに適している。
昨日の失敗は自分のせいかと思えばこそ練習にも身が入る。
塘路を極めて、その結果を評価されるのもこの広場。判定は誰でもなくこの広場がする。
塘路を正しく理解し、その通り行うことができれば長年の先史がこの広場に刻んだ通りの動きとなる。
強く踏み込む点、そこに出来た窪みにちょうど収まるようにできているからである。
そして、必ず手の位置や足の位置を止める場所には長老が座る位置からみれば必ず目印があるわけです。
そこに位置付く様にこなせばいいわけです。
もっとも、それを教えられるのは絶掌(その武術の必殺技。最後に教えられるために免許皆伝の意味となる)を与えられて後なのであるから知ってからでは役に立たない情報なのである。
うまくやれていると思う時には自らの正しさを証明してくれる練習場だが 今日は・・・ どうも駄目みたい。
うまく行くときははっきり分かる。踏み出したときに助けてくれる地面の窪みにけつまづきそうなほど乱れている。
見ている長老はそれにすら興味がないようで、すでに手を離れた弟子の成長など酔うのではと思えば不安になる。
何か一言でもアドバイスをもらえれば・・・
ああ、駄目 長老たちはそれどころではないのに自分のことしか頭にない。